ここ数ヵ月ほどの私のアップル製品に対する予想は、「iPhoneの液晶サイズは3.5インチのままで変わらない」、「7インチのiPad miniは発売されない」、「アップルの最大関心領域はおサイフ」、次にめざすのは「世界共通キャリアになること」の4点だった。これらが見事に外れまくっているので、iPhone 5についてもおとなしくしていたが、ジョブズが亡くなって1年の追悼の意味で書かせていただく。
↑ここ数ヵ月に遠藤諭が記事中で言及したiPhone、iPad関係の予想の当たり外れ一覧。
9月21日に発売された『iPhone 5』は、イノベーティブな新機能が追加されなかったにもかかわらず、手放しで賞賛する記事を多く見かけた。ふだんは技術もよく分かった冷静な分析記事を書く同業者たちが、女子高生のような正常心を失ったラブレター型の原稿を書いていたりしている。
スティーブ・ジョブズのプレゼンは、現実歪曲空間(RDF=Reality distortion field)と揶揄されることがある。つい先日まで『iTunes』をダウンロードするとアップルのサイトには「Congratulations!」と表示された。ストアまでついたアプリを入れておいてそれはないだろう。なにかの間違いでよく分からないパーティに参加して、正体不明の液体を飲んだら、みんなから一斉にパチパチと拍手を送られたような気分になる。
↑iPhone 5でも多くの人たちが手放しで賛辞をおくり行列をつくって買った。ジョブズとユーザーのこの落差はなんなのだ? しかし、そこには深遠なモノづくりの図式というものがある。
そういうことがまかり通る、ある種の“毒”のようなものが、アップルの製品にはある。これは、先頭を走る者だからこそ、個性が際立っていて、大胆にふるまうようにみえるということだ。平凡なマイケル・ジャクソンというのはありえないというものだろう。
私は、海外などでコカ・コーラのあの重たくてなまめかしいボトルを見かけるとうれしくなる。日本でも初めて立体商標として承認されたコンツアーボトルのことだ。逆に、プラスチック製のパックに詰め込まれたワインや、文房具のような嗜好性の高いジャンルで伝統を捏造するようなデザインを見るのはつらくなる。
合理主義ではなくて、つくり手の意匠を頑固に変えないで売り続けているところにコカ・コーラのボトルの価値がある。そんな、ワン・サイズ・フィッツ・オールの強力なモノ作りの伝説が、いま目の前でリアルタイムで起きているのがiPhoneなのだ。ITジャーナリストと呼ばれる人たちは、発表前に製品をこっそり見せてもらっているからベタ褒めしているのではない。彼らは、まだ誰も言葉にできていないテクノロジーと経済と歴史の境目にある現実を伝えたいだけなのだ。
日本の経営者にビジョナリーが少ないといまいわれるのは、彼らがテクノロジーを知ろうとしないからだと思う。世界が、“クラウド”や“モバイル”や“ソーシャル”やそれらの“分析技術”で動いているのに、そのことを“株価”や“企業間の戦い”や“経営者の発言”に翻訳してしか見れないことが問題なのだ。電話線が張られたときに、「荷物を結わっておけば相手に届くのか?」と聞くような経営者が多いということだ。
iPhoneの成功は、その意味で、日本の経済と経営者にとってプラスな事件だった。とにかく、シンプルなので「iPhoneの話題だけはオヤジ層にも受けるのですよ」と、私の知っているテレビ東京WBSの担当者は言った。それによって、いまやオタクな技術にいろどられた製品やサービスしか利益を生み出し続けることができなくなりつつあることを正視するチャンスを与えられている。
『iPhone 5』を手に持って感じるのは、やはり軽く、薄く、軽快に動くようになったということだ。最初にも触れたように新しい機能が投入されたのではなく、形と質がシェイプアップされた。それは、とても高い水準で実現されていると思う。ところが、米Treehuggerの記事(外部サイト)によると『iPhone 5』で行われたイノベーションは、“修理しやすい”点なのだそうだ。
ご存知のとおり、iPhone 4Sでいちばん壊れやすいのは表面のガラスである。しかも、修理すると1万円以上のお金がかかるので割れたまま持ち歩いている人もめずらしくない。iPhone 5では、ガラスがいちばん最初に外れる部品になっているそうだ。
iPhoneがバッテリー交換できないことに対して、米国の環境団体が警告書簡を送ったことがあった。iPhone 5では、相変わらず本体裏側をカパッとあけて交換することはできないが、初代では21もの手順が必要だったのが、5分以内で交換できるようになっている。
iPhoneのホームボタンが効かなくなっている人も多いらしい(日本ではあまり聞かないがアメリカ人は力が強いのだろう)。iPhone 5では、ボタンの機構も見直しがされた。ほかにも地道かつアグレッシブな進化が目に見えない部分でされたのがiPhone 5なのだ。
しかし、こういう真面目な取り組みというものを見ると、なんだか所帯じみた製品になってきたような気がする。なぜリキッドメタルではなくアルミが使われることになったのか? それも、これも1年以内に億単位でつくって売られることになるiPhone 5であることを考えれば、当然のことなのかもしれない。いまや、アジアはもちろんのこと、中近東やアフリカ、子供から老人まで使っている。
だから、たぶんiPhone 5という製品にとっては、ニューヨークのアップルストアは、もう五番街やファッションとアートの街であるソーホーに店舗をかまえていなくてもよいのかもしれない。
私は、ジョブズがCEOをやめたときに「スティーブ・ジョブズはどこにでもいる」と書いた。iPhone 5と同じくらいに突き詰めてモノづくりをする人たちが、世界中にはいくらでもいることは技術者なら知っている。だからこそ、ジョブズは素晴らしいのだと書いた。誰にでもジョブズになれる可能性があるところにジョブズの魅力がある。
しかし、反面ジョブズという個性と時代のめぐりあわせによって培われた強烈なモノづくりのスタイルがあった。それは、ジョブズの不在とか、後継者のティム・クック(彼は先のコラムの続編で書いたように熾烈なモバイル市場の中で“勝つことへの執念”から選任された)の意思によってではなく、iPhoneが売れ続けたことで変化せざるをえなかった。
ちょうど砂山が大きくなったために崩れる(自己組織化臨界という)瞬間が訪れつつあるのかもしれない。すでに、iPhoneの発売から5年が経過して、ITの世界はずいぶんと様変わりした。もう、アイコンをタップしてアプリを起動しては終わる使い方はめんどうで、タイムラインをだらだら使うような文脈型の使い方のほうが便利そうである。それも、iPhoneがソーシャルメディアを流行らせるのに一役買ったことが理由のひとつなのではあるが。
これは杞憂であって、iPhone 6は、我々の目をうたがうようなものになる可能性もある。ジョブズがつくってきたものは、間違いなくテクノロジーの産物で、人の行いは有史以降同じようなレベルをいったり来たりしているが、テクノロジーだけは進化しかしないからだ。
↑Madame Tussaud's Hong Kongでは、いまスティーブ・ジョブズの蝋人形が展示中だ。非常に精巧に作られたジョブズは、相対性理論のアインシュタインの隣、向かいには日本の吉田茂首相の人形が展示されている。
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